日本呼吸器外科学会学会のあゆみ

呼吸器外科研究会から日本呼吸器外科学会設立

正岡 昭 (名古屋市立大学名誉教授)

1960年代、われわれ呼吸器外科医は不遇をかこっていた。1950年代中頃から始まった心臓外科は、その後の20年間で、多くの技術革新に支えられ、心臓外科手術対象疾患を拡大し、新しい術式を開発し、手術症例数は鰻上りに増加していた。学会では、その演題数は飛躍的に増加し、論文数も胸部外科関係の全論文数の大部分を占めるまでに至っていた。
 一方、呼吸器外科は、主たる対象疾患が結核から肺癌に変わったとはいえ、診断技術が十分でなく、発見されるのは巨大腫瘍で手術成績も芳しくなかった。また手術症例数も心臓外科にはるかに凌駕されていた。全国の大学の外科教室の教授も、一方が消化器外科で、他は心臓外科を専攻するというのが、一般的な図式であった。従って呼吸器外科を専攻しようという若い医師は、心臓外科に比し遥かに少なく、両者の関係には著しい格差が示されていた。
 また心臓外科手術に比し、呼吸器外科手術は、特殊な装置・器具操作が少なく、各地の胸部外科教室では、心臓外科医が片手間に肺切除を行う傾向が出てきた。そして胸部外科医というものは心臓外科を専攻し、呼吸器手術も行うというパターンが定着しつつあった。
 潮目が変ってきたのは、1970年代であろうと思う。この頃、気管・気管支の形成手術が行われるようになって、呼吸器外科に特殊な技術的基盤がもたらされた。またこのことは、それまで肺機能の減殺を必然的な結果として遇してきた肺切除に対し、肺機能の温存あるいは改善を期待する領域が展けてきた。心臓手術が術後の機能改善を招来し、患者の感謝の念を獲得するのを悔しがっていたわれわれに光明がさしてきたのである。
 さらに重症筋無力症に対する胸腺摘出術や漏斗胸の矯正手術など、機能改善を期待する方法が開発されてきた。加えて、この時期には癌についての研究が全世界的に著しい進展を示してきた。従って癌についての知識を持たない医師が癌を取り扱うことはできないという風潮も生まれてきた。同時に癌の診断技術も飛躍的に向上し、多くの癌が治療対象となり、特に肺癌症例の増加が著しくなってきた。
 現金なもので、この頃には呼吸器外科専攻を希望する若い医師も増加し、大学の外科教室でも呼吸器外科専攻の教授が誕生するようになってきた。このような傾向が顕著になってきたのは1980年代になってからである。
 日本呼吸器外科学会誕生の気運が出てきたのは1983年のことである。京都大学の寺松孝教授(結核研究所外科)が日本胸部外科学会とは別に、呼吸器外科専門医だけの研究集会を持とうという提案をされた。このことを公開の席上述べたのは、その年、寺松教授が主宰された日本胸部外科学会場の一室であった。寺松教授はこの席上、呼吸器外科の専門性が高まった現状を示して、呼吸器外科医のみの研究集会の必要性を力説された。この席上、激論が交された。早田義博教授は第30回日本胸部外科学会の会長でもあり、このような呼吸器外科医のみの集会は分派行動であり、日本胸部外科学会の中でも十分議論できることではないかと、日本胸部外科学会擁護の立場に立たれた。
 われわれはどちらかといえば、日本胸部外科学会の三本柱といわれる、心臓、肺、食道の三分野並立に違和感を感じていたので、呼吸器外科研究会の発足は時宜を得たものと考えていた。そして将来起るであろう専門医と密接に関連して行く機関になりうるという期待感も持った。そしてこの研究会は日本胸部外科学会から脱会するのではなく、別個に設立されるものであり、心臓や食道と関連する問題については、日本胸部外科学会で取り扱えばよいという考えに立った。この会合の結果、呼吸器外科研究会設立が決定され、翌1984年の4月に寺松教授が会長となり、早田教授が主宰された日本胸部疾患学会の開催される東京都で、それに連続して開催されることになった。
 この研究会の設立は、当然のことながら、心臓外科医達の猛反発をうけた。心臓外科医達は自分らも呼吸器外科に携っているので、呼吸器外科に関する問題は胸部外科学会で行うべきという論拠である。そしてこのような研究会の設立は日本胸部外科学会の自壊に繋がるのではないかとの危機感が持たれた。
 このような反対意見に対し、呼吸器外科研究会は、この研究会は心臓外科を専攻し、呼吸器外科手術も行う人達を疎外するものではないと力説し、評議員に心臓外科専攻医を多数任命するといった手段をとって漸く第1回の研究会開催が可能となった。  第2回は、私が会長で、名古屋で日本胸部疾患学会に連動して開催した。会期は第1回と同じく1日であった。
 第3回は、九州がんセンターの大田満夫先生が、福岡市で、日本胸部疾患学会とは離れて、5月23、24日と2日制を採用された。これは演題数の増加を消化するためであり、参会者数、演題数の増加が、本研究会の運営についての自信をもたせたといえる。
 第4回は仙台で、仲田祐教授(東北大学)の主宰で開催されたが、このときから呼吸器外科研究会は日本呼吸器外科学会と改称し、将来の専門医制度の発足に備え、日本医学会加盟の手続きも開始するようになった。
 このとき、日本呼吸器外科学会創立記念祝賀会が開催されたが、席上、長石忠三、武田義章、宮本忍、加納保之、香月秀雄、井上権治の6先生が名誉会員に推薦され、仲田会長は、本学会が基礎医学や呼吸器内科と緊密に連繋するものであり、呼吸器外科という診療標傍科名に対応するものであることを述べた。
 日本呼吸器外科学会の発足にあたっては、数多い呼吸器外科医達の共感と力強い支持がその原動力になったが、われわれを牽引し、多くの障害と闘って発足にこぎつけられたのは寺松教授であり、その先見の明とエネルギーに敬服の念を禁じえない。

2009年7月9日掲載